一般の方

全国たくさんの個人の方が民際センターの活動に共感いただき、経済的に貧しく学校に通えない子どもたちにご支援いただいています。

※民際センターの収益の73%以上は個人の方々の寄付で成り立っています。

 

民際センター設立当初から支えて下さっている支援者の声

ダルニー奨学金の支援者の声

 ▼ ラオスの子どもたちと、亡き父のつながり

 ▼ 幸せをつかんだ奨学生の結婚式に参列

 ▼ ドナーさんに聞いた継続支援の理由

 ▼ 奨学生に出会った2人の大学生が感じたもの

 ▼ アルバイト代で1人の子どもを支援

少数民族教師育成プロジェクトの支援者の声

Libraryキャンペーンの支援者の声

遺贈支援者の声

 

 

民際センター設立当初から支えて下さっている支援者の声

■ No.1  細川 俊彦さん

教育の力 ~ダルニー奨学金に寄せる思い~
私は、去る平成30年11月9日に神田一橋の学士会館で開催された民際センターの「感謝の会」において、ダルニー奨学金の長年にわたるドナーとして表彰を受けた6名の受賞者のひとりです。
 民際センター発足から間もない1989年頃、毎日新聞の片隅に、タイ王国の北東部の貧しい農村地帯に住む子どもたちに、中学進学への学資を提供している、志の高いこの団体のことが報道されていました。かねて人が生きていく一番の拠り所として、また社会の発展と安寧の基盤として、最も大切なものは教育であると信じてきた私は、秋尾晃正氏の活動を知り、深い共感を覚えました。タイと日本との物価水準の差異により、わずか1万円で、1年間、中学校で勉学生活を送ることができ、3万円もあれば、ひとりの小学生に中学卒業までの教育の機会を与えることができるとは、なんと素晴らしいことではないか。家庭の事情で大阪での職業生活に終止符を打ち、富山市へ転居し、ようやく生活も軌道に乗り始めた1990年にドナーとなったのです。

 奨学金を民際センターに送ると、まもなく奨学生の写真とともに、家庭環境や将来の進路希望を記した書類が送られてきます。親の職業は農業が殆どで、兄弟姉妹の数は3~4人と多く、また学校までは一般に遠く、何キロも歩いて通学していると、私の中学生時代よりも少し前の、終戦前後の日本の社会状況を彷彿とさせるのです。将来の進路希望として、男子は公務員、警察官、女子は看護師や教師が散見されます。男子にはキックボクサーになりたいという子も何人かおり、お国柄だと感じ入ったこともありましたが、果たしてスター選手になったのでしょうか。
 奨学生は、中学卒業とともに入れ替わりますが、私の場合、例年、決まった金額を民際センターに送金するだけで、奨学金の割り当ては、全て「民際センター」一任という形にお願いしてきました。いつしか28~9年間にも及んでいることで、この度、図らずも表彰を頂き、また会議終了後の懇親会に参加する機会に浴しました。
 100名を超える方が参加した懇親会は、初対面の方ばかりでしたが、楽しい歓談のひと時でした。奨学生との面談のため、はるばるタイの現地まで赴き、親交を結んでおられるドナー、歴代の奨学生の写真を整理したアルバムを披露されたドナーもおられました。専ら資金提供という形でしか関与できなかった私ですが、ドナーと奨学生との関わり方には様々な態様があっても良いと思っています。
 懇親会で、かつての奨学生が、教師、看護師、警察官などとして活躍している姿が上映されました。奨学生が社会に出て、公共性の高い仕事に携わっている姿をみると、老いてもドナーを継続しようと意欲が湧いてくるのを覚えます。
 当初、対象国はタイだけであったのが、近隣諸国まで拡大し、5か国にもなったのはこの上ない喜びです。民際センターの益々の発展を心から願っております。

No.2 H.I.様

国を超えて、次の世代への思いを込めて

感謝の会では、様々な人とお話しすることができ、自分ができることをしているがそんなに永くかかわっているのかしら・・・という感慨がありました。このような機会にタイの公使の方のお話も聞けたことも貴重な経験です。他でも支援をしていますが、区切りの年に記念行事をすることは価値のあることだと思います。戦時中に中国で生まれ、戦後、帰国し苦労もしましたが、教育を受け、仕事に就く事も出来たことに感謝しています。中国残留孤児になっていたかもしれない自分の事を思い出すと、経済的に恵まれないために教育を受ける機会のない子どもたちの事を憂い、私も何か役に立ちたい、そして、民際センターの人と人のレベルでの支援という理念に共感し今日まで続けてきました。そして、事務局の方へ。これからも、できる限り永く支援したいと思っていますので頑張って下さい。

No.3 山本 裕子 さん

共に支援をした年月を経て

感謝の会に参加して、動画、講演等がわかりやすくまとめられ、民際センターの歩みと今が改めて良く解りました。支援を始めたころ、当然ながら今より若かったのですが、参加された皆さまも同じことを思っていらっしゃるようで、改めて32年と言う歴史の重みを感じました。タイに家族の仕事で住んでいた当時、現地の方々にとてもお世話になり、恩返しをしたいと思っていた矢先、朝日新聞の記事が目に留まり支援を始めました。その後は、民際センターの方と一緒に娘と奨学生の暮らすイサーンの村を訪れ、決して裕福ではない、泊めて頂いた家の方が、帰りに食べ物を持たせて下さった優しい気持ちが今でも忘れられません。また、日本とタイの事務所でタイ語ボランティアとして協力し、子どもたちの想いに触れることができました。今は、イサーンを一緒に訪れた娘も大きくなり、途上国の農業に関する仕事に就きました。支援を行ってきたことが彼女の人生にも影響を与えていると思うと感慨深く思います。

【設立当初から約30年以上支援を継続されてきたドナーの方にその理由を聞きました。】

■ No.4 田村幹夫さん(神奈川県・大和市)

「夫婦でタイに観光旅行に行った直後に奨学金のことを知り、縁を感じて支援を始めました。写真を見ると身近な甥や姪、今は孫とも重なり淡々と続けてきました。奨学金をまとめて割り振っても良いかと聞かれたことがあったと思いますが、1対1のつながりを感じられる今のスタイルが良かったです。立派なものを作ると山があれば谷もあり後が大変ですが、子どもたちの教育を最優先して地に足をつけている現状はいいと思います。定年をむかえ年金生活ですので続けられるうちはと思っています」

 

■ No.5 S・Mさん(北海道・札幌市)

「高校生の時、アメリカ・ミシガン州に私費留学しました。ホストファミリーが無償で私を受け入れ、車で国内を案内してくれたり、様々な国の人との交流の機会を提供してくれました。それが本当に嬉しかった。帰国後、その恩返しをしたい、できたら外国の人に役立つ支援をしたいと思っていたところ、新聞でダルニーちゃんの記事を読みました。幸い、夫の収入で生活でき、私の収入は自由に使ってよいと言ってくれたので、薬剤師として得ていた私の収入をずっと奨学金に充てました。教育を受けたら才能を伸ばせる機会ができます。お互い様の気持ちで、これからもできる限り支援を続けたいと思っています」

 

■ No.6 細野裕さん(神奈川県・横須賀市)

「新聞の小さな記事を見て支援を始めました。タイに学校が足りないなどの状況を知っていたので、何か支援をしたいと思っていた頃でした。当時は今のような顔写真はなく、直筆で生徒の報告やお金の使途が明確に書かれた報告書でした。以後毎年、報告が丁寧になり、事務所が整備され、奨学金システムが向上していると感じました。情報を発信する力もあり、場所は覚えていませんが、支援者の集まりに顔を出したことがあります。その集まりで、秋尾さんはじめスタッフの方が押し付けではなく淡々と話されている雰囲気が印象的でした。これからも初期の熱意を失わないでほしいですね」

 

■ No.7 S・Yさん(千葉県・市川市)

「新聞の記事を読んだのがきっかけで始めました。他の団体への支援もしていますが、教育は大事だと思う気持ちで継続しています。途中で支援がタイからラオスに変わった理由は、ラオスのほうが貧しいからです。こちらも裕福ではない中で工面していますが、残念なのは何らかの事情で途中で奨学生が変わるときです。あるときプレゼントセットを正月明けに送ったら、その子は新学期早々に奨学金を受け取り、その後に学校をやめたそうで、プレゼントセットは別の子に送ることになりました」(そうおっしゃりながら、「教育は大事」という気持ちで、毎年3名のご支援を継続してくださっています)

 

■ No.8 M・Nさん(東京都・中野区)

「家内がどこからかダルニー奨学金のことを聞いてきて、わずかなお金が役に立つのなら、と思って支援を始めました(奥様も同様にご支援をされています)。30年近く支援が続いた理由を聞かれても特にないのですが、1万円(当時)で子どもが学校に通えるなら、無駄遣いをするよりもよいと思って。(支援している子どもの写真が送られてくることが長続きした理由の1つでは、との質問に)写真が来なくても、きっと支援を続けていたと思いますが、あった方がよいでしょうね」

 

【ダルニー奨学金】支援者の声

【ラオスの子どもたちと、亡き父のつながり】

■ No.9 井上文子さん

井上様は2008年より、タイを初めラオスの子どもたちにダルニー奨学金をご支援頂き、沢山の子どもたちの卒業を見守って下さっています。また、お父様のご遺産で、ラオスに学校を建設頂きました。
その学校に再び訪れたときにラオスにかけがえのない思いがあると手記を寄せて下さいました。以下がその手記です。

「こんなに、ものすごい悪路を毎日彼は、モーターバイクで1時間以上かけて学校に通っているんだ!」
――深い森の中の、真っ暗なガタガタ道を走る車の中から見た、あまりに過酷な通学状況に、頭をガチーンと打たれたようにショックでした。
この2時間前、私は父の遺産で建てたサワンナケート県のドンパイヴァン中学校の歓迎会に参加していました。
中学生達の披露してくれる「ラオス舞踊」に、うっとり見とれていました。

 

訪れた井上さんを歓迎するラオスの生徒たちの様子

 

2年前に建てた「ドンパイヴァン中学校」を再び訪問したいと民際センターのスタッフに相談したところ、「建てたばかりの新しい立派な学校だけを見ていると、生徒達の本当の貧しさが分からないので、奨学生の自宅も訪問されたらどうですか」と提案されました。

当初は「どちらでもいいな」と思っていたのですが、日本に帰って数日経った今「訪問して本当によかった」と思っています。

井上さんと奨学生

 

命をかけて通学する世界の子供達のドキメンタリー「世界の果ての通学路」と重なり、そこまでして学校に通うという現実に、日本との違いを重く感じるのです。
日本の子供達はあまりにも過保護で恵まれていて、それが当たり前の世界で生きている。

山々をバイクで列を作りながら、駆け抜け通学している彼らを見ていると、限りないたくましさを感じ、ラオスの未来を背負っていく大人になってゆくだろうと思いました。
勉強が大好きだったけれど、家が貧乏で学校へ行けなかった父の遺産を引き継いだ私は、民際センターを通じてその遺産でラオスに中学校を建てることができました。


そして、私自身も父のお陰で、広い世界を見ることが出来、今回一緒にラオスの歓迎会に参加してくれた、仕事仲間でドナーでもある友人が「今まで30回海外に旅行したけれど、一番内容の濃い旅行でした」と言っていました。

井上さんにご支援頂いた学校

 

父の墓前に報告しよう!
「お父さん、ラオスの子供達は、大変な思いをして学校に通い勉強しているよ!ラオスのためにきっと立派な社会人になるよ!」と。

父もきっと喜んでいるとおもうのです。

 

 

 

【幸せをつかんだ奨学生の結婚式に参列】

■ No.10 中野秀俊さん

元奨学生の結婚式

 

16年前に初めて支援した奨学生ナムチョック・プイペン(ヌイ)から、「結婚するので結婚パーティーに是非参加してほしい」と連絡がありました。


以前より彼女が結婚する際は参加する約束をしていたこともあり、佐久ダルニー連絡会代表の柳沢光一氏とタイに行ってまいりました。
彼女は中学時代から勉強が好きで、私の家族の理解もあり中学~大学まで支援をしました。
大学卒業後も今日に至るまで16年間互いに連絡をとり合い、彼女は私のことを「父さん」と呼んでいます。

 

彼女は今、バンコクの短期大学で学校スタッフとして勤務しております。
彼女はすでに実父を亡くしているため、結婚パーティー招待状には両家のご両親名のところに私が彼女の父親として印刷されていました。

18時よりパーティー会場入口で、新郎新婦と両家の両親とで招待者をお迎えするのですが、私も彼女の父親として約600名の招待客をお迎え致しました。
セレモニーでは、新郎新婦の首にお祝いの花輪を職場の上司や各関係者がかけたに新郎の父親が挨拶をし、その後新婦の父親として私があいさつをしました。
あいさつ文は事前に私が住む市の市役所のタイ語翻訳ボランティア(タイ人)にタイ語に翻訳してもらい、式では彼女が代読しました。彼女が代読する前に、私がカタカナ翻訳したタイ語でしどろもどろしながら自己紹介と彼女との関係、さらに私がタイ語でのあいさつができないので、彼女に代読してもらうことを短く説明。そして、いよいよ彼女があいさつ文を代読しましたが、段々涙声になって声を詰まらせ、さらに新郎とご両親も涙していました。

それを見た私も涙、涙・・・。

私はいつも思っているのですが、彼女がどんなに頭が良くてもダルニー奨学金に出合えなかったら、今の幸せな生活は無かったと思います。
今回、改めて教育を受けることの大切さを再認識するともに、彼女の幸せを願い、タイをあとにしました。

※当時奨学生だったヌイを高校・大学まで支援しました。

※掲載文は、2017年3月にタイで行われたヌイの結婚式に、「お父さん」として出席した中野さんから届いた感想を一部修正したものです。

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【奨学生にラオスの子どもたちと、亡き父のつながり】

■ No.11 山田樹さん(大阪大学3年生)

― 現実への抵抗 ―

9月5日~8日まで、支援先であるラオスの中学校を訪問しました。
今回、私がラオスに行った理由は、支援先で足りていないものを明らかにするためです。

私は、探しものをするような気持ちで、学校に足を運びました。そこで見た景色は、私の想像を超えていました。
明りがなく、隣と筒抜けになっている教室、消してもきれいに消えない黒板など、日本の中学校と比較すると何もかも足りず、現実は厳しいと感じました。しかし、ラオスの子どもたちは、私と同じ感覚を抱いていませんでした。

先生の問いかけに対して、大きな声で答える姿、数学の答えが正解だったときに、みんなで拍手する様子、笑顔が絶えない授業の風景などを見ていると、とても不満があるようには見えませんでした。さらに、支援している学生の家を6軒訪問し、「勉強関係で何か欲しいものはありますか」と学生に聞いたのですが、6軒とも「いいえ。ありません」との答えが返ってきました。
さて、この答えを鵜吞みにして良いのでしょうか。

私は、この答えをそのまま受け入れ、現地レベルで足りているから支援は十分だ、と安易に考えるべきではないと思います。

現地目線は持った上で、さらに良くするにはどうするべきかを考えないと、支援のレベルは上がりません。より笑顔が多い授業、より子どもたちが満足して勉強できる環境を作るべく、ちょっとしたことでもいいから、ラオスで見た現実に抵抗し、変えていこうとする姿勢が重要なのではないでしょうか。

■ No.12 東藤紗也加さん(大阪大学1年)

― 自分の目で確かめること ―

私が今回、スタディーツアーに参加した理由は、自分たちの支援がちゃんと支援先に届いているのか、自分たちの支援方法は適切なのか、自分の目で確かめたかったからです。それから、自分たちの支援している子どもたちって一体どんな子たちなんだろうと興味があったからでした。

東藤紗也加さん

 

ラオスに入国して、学校に向かうまでの道のりは、子どもたちと会えることに対する、ワクワクドキドキで胸がいっぱいでした。学校について、花道で迎えられた時は本当に心が躍りました。

子どもたちは最初緊張して私たちを遠巻きに眺めているだけでしたが、次第に打ち解け、小学生の子たちとは鬼ごっこやサッカー、ゴム跳びをして遊び、中学生の子たちとは、じゃんけん列車を教えて遊んだり、スマートフォンを使って、一緒にたくさん写真を撮ったりして楽しみました。

ラオス奨学生

 

 

奨学生の家も訪問して奨学生に直接質問をして、いろんな話を聞きました。
奨学生やご家族の方の話から、自分たちの支援が過去から現在のものまでちゃんと届いていること、それが適切な支援であること、これからも持続的な支援が必要であることがわかりました。

 

今回のスタディーツアーを通して、ネットの情報からは知り得ない多くのことを知り、学ぶことができました。自分の目と耳で「確かめる」大切さを感じたとともに、それを他のメンバーに伝えることが重要であると感じています。
学んだことを生かして、これからより多くの子どもたちを支援できるように貢献していきます。

【アルバイト代で1人の子どもを支援】

■ No.13 鈴木美里さん

鈴木美里さん

 

私が奨学生を支援したきっかけは、友人の紹介でした。
初めは、なんとなく支援を始めましたが、支援した子供の写真が送られてきた時に
「1人の子どもを支援した」ということを実感し、喜びを感じました。

そこで、支援を続けていこうと思いました。一年に一万円なら、学生の私でも、アルバイト代で支援を続けることができました。
ラオスには、勉強する意欲があるのに、家の手伝いや経済的な問題から学校に行けない子供達が多くいます。
しかし子供達はその環境にも屈せず、将来は医者や教師になりたいという夢をもっています。

私は、子供達のその意欲を発する場所を、これからも提供していきたいと考えています。
私1人の力では、多くの子供を支援することは出来ませんが、より多くの人が支援してくれれば、より沢山の子供達の夢を応援することができます。もし、子供達の力になりたいけどどうしたら良いのかわからない・・・と思っている人がいるなら、ダルニー奨学金をお勧めします☆

■ No.14 山田美里さん

山田美里さん

 

私は社会人になったことがきっかけで、ダルニー奨学金のドナーになりました。
ドナーになった理由は、学生時代の旅行を通して大好きになったタイとつながりを持ち続けていたいと思ったことです。
ダルニー通信や、年1度の奨学金証書を通じて、奨学生の成長や現地の様子を知ることは、大きな楽しみです。

 

数年前には、タイのルーイ県にある奨学生の家と学校を訪問させてもらいました。
現地では、茅葺き屋根の貧しい家の様子と、学校まで山道を1時間以上歩いて通っている事実に衝撃を受けました。
そして、奨学生に会った時には、私が働くお給料のほんの一部で、彼という一人の子どもの未来が明るくなるかもしれないことが嬉しく、また、中学生とは思えない小柄な体や、恥ずかしそうな笑顔に胸がしめつけられるような気がして、なぜか涙がボロボロ出ました。

現在、彼は中学校を卒業し、私は次の奨学生の支援を行っています。
いつかタイの全ての子どもたちが学校に行ける日を願いながら、今後も自分にできる形で、長く支援を続けて行きたいと思います。

■ No.15 東矢高明さん

東矢高明さん

 

子どもたちと出会って1990年にドナーとなり、1997年以来継続してタイ・ラオス研修旅行に参加しています。
その旅行で子ども達に会うたびに、何かできることは無いかと思ってしまいます。

 

行きつけの居酒屋に募金箱を置かせてもらい、知人に子どもたちや村の写真をみてもらって協力を仰いでいます。
効果があるのは、公務員なので互助組合会報に書き損じ葉書や未使用テレホンカード等の提供をよびかける記事を掲載していることです。

クリスマスカードや年賀状にもその旨を書きます。この成果で昨年はタイ・ラオスでAタイプ2名を、今年はCタイプ2名を支援できました。
1年かけて集めた使用済インクカートリッジを寄付する方、何年もかかってハガキを集める方、家を掃除したらテレホンカードが出てきたという方が必ずいて、些細なことですが、毎年続けていることで覚えてくれる人がいるのです。
自分のことでは何も思いつきませんが、子どもたちのためにはまだまだいろんなアイデアが出てきそうです。
「確かに私たちのしていることは大海の中の一滴にしか過ぎません。でもその一滴がなければ大海もないのです。」(マザー・テレサの言葉から)

 

【少数民族教師育成プロジェクト】支援者の声も見る

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【少数民族教師育成プロジェクト】支援者の声

■ No.16 Sさん

彼女たちの活躍でラオスがさらに発展することが楽しみです。
ラオスは多民族国家です。その少数民族の子どもたちは共通語のラオスがわからず学校の授業が理解できません。

そこで民際センターは少数民族の教師を養成することで子どもたちの理解度の向上に努める「少数民族教師養成プロジェクト」を実施しています。その少数民族教師養成プロジェクトの奨学生コウンエヴァー コウンサヴォンから、教師養成短一年生修了時に、支援者のSさんにお手紙を書いたのです。その手紙には、彼女が日本のお母さんと呼ぶSさんに対する感謝の気持ちと将来の夢が綴られていました。

その手紙を受けてご支援者のSさんからコメントを頂きました。

《コウンエヴァーさんからの手紙》

コウンエヴァー コウンサヴォンさん

拝啓

日本のお母さんと呼ばせて頂いてよろしいでしょうか? 日本でどのようにお過ごしですか? 私と私の母は元気にしています。子供の頃に両親は離婚し、それ以来父とは会っていません。なので、母が今日まで私を育ててくれました。貴方様の御支援は、私の生活を良くし、母の支出を減らしました。私の家族はとても貧しいのです。貴方様の支援がなかったら私はより高度な教育を受けることはできなかったです。ですので、私にこのようなまたとない教育の機会を与えて頂いたことに本当に感謝しています。貴方様の親切に報いるためにも私はここ教師養成短大で身に着けた知識を生かして故郷に帰って子どもたちを教えます。貴方様のご健勝をお祈りいたします。

コウンエヴァー コウンサヴォン

 

《Sさんからのコメント》

この度、教師育成プロジェクトのお話を聞き、ラオス発展への素晴らしいサポートになると思い援助させていただきました。教育のレベルを上げるには教師の質が重要ですし、その教育を受けた後に就業できるという流れがあれば子供たちの夢が広がると思っておりました。

最初にライカムさんという方のご支援をして、彼女から感謝あふれるメッセージをいただきこの支援で1人の女の子の人生を希望が持てるよう変えることができたことを実感しました。彼女が卒業した後、続けて他の方を支援することは決めていました。そして、今回ご縁のあった方がコウンエヴァーさんです。送られてきた写真を拝見するとまだまだ幼さの残る顔立ちです。笑顔の写真からお友達と楽しく勉強をしていることが伝わってきますが、学校卒業後はお母さんを楽にしてあげたいという気持ちも伝わってきます。私には一人しか娘はいませんが、彼女たちからのメッセージに「日本のお母さん」と呼ばれて娘が増えたようで本当に嬉しいです。その彼女たちの活躍でラオスがさらに発展することが楽しみです。

 

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【Libraryキャンペーン】支援者の声

■ No.17 栗原容子さん(板倉ラオスの会)

「 本が皆無の村の子どもたちに150冊の本をプレゼント 」

板倉ラオスの会

 

私たちの支援活動は、タイで最も貧しいと言われる東北地方の子どもたちの中学就学を支援する奨学金提供から始まりした。
その後、支援対象を同地方よりもさらに貧しいラオスの子どもたちに移し、2001年にはラオスの南部セコーン県パクトン村に校舎を寄贈し、以後、2年おきに同村を訪問して滞在し、村人や子どもたちと交流しています。

パクトン小学校への図書寄付

 

3回目の訪問時(2005年)、パクトン小学校に約150冊の本が入る図書箱をプレゼントしました。
ラオス第2の都市パクセーから車で2時間半の同村で、子どもたちが教科書以外の本を手にする機会は皆無だからです(教科書すら持っていない生徒がいます)。
村の近くの市場でも本を見かけませんし、パクセーの巨大な市場でも、その片隅にほんのわずか積んであるだけです。

本は想像力と思考力を養うのに欠かせません。本を読んで、村の現実とは別の、様々な広い世界があること、また人間には美しい世界を創造・想像する力があることを子どもたちが楽しく学んでくれたら、とても嬉しく思います。

■ No.18 吉山和宏さん

「 ラオス研修旅行に参加して図書セットを寄贈 」

吉山和宏さん

 

私は定年退職後、時間に余裕が出来たので、研修旅行に参加させてもらいました。
始めはタイ・イサーンの南と北へ行ったので、この次はと考えていた時に、
旅行会社の案内にラオス旅行が有ったのを思い出し、ラオス研修旅行に参加することにしました。2008年はカムアン県でした。

参加させてもらった時、奨学生にドラえもんのラオス語版を持参し渡しましたが、興味を示しません。

緊張しているのかなと思いましたが、そういえば、1991年のタイ研修旅行の時、宿泊させてもらった小学校には図書室があり、多くはないがある程度の本がありました。このラオスの小学校には図書のある部屋がありません。生徒も一冊の教科書を数人で見ているようです。

これでは、本に興味を覚えることが無いことが解り、次年度の図書事業に参加させてもらいました。少ない冊数ですが、本箱を開けると楽しそうに気に入った本を探して見てくれました。

これからも、事情が許せば、ラオス図書プロジェクトに参加させてもらいたいと思っています。

■ No.19 Sさん

「カンボジアに本を寄贈していただいた支援者の方(S様)より以下のお礼のお手紙をいただきました」

民際センターご担当者様
先日はカンボジア図書支援についてのご丁寧な報告書ありがとうございました。
私のささやかな気持ちが子どもたちによろこんでいただけたならとてもうれしく思います。
私も子どものころから図書室が大好きでそこにいるときの心の安らぎを忘れることができません。
心のサプリメントですね。
生徒の皆さんが私のネームプレートを持ってくださっている写真には大変感激いたしました。
かえって私の方が楽しい夢をいただきました。
お世話をかけちゃいましたね。
世情険しい中、大変なお仕事と存じますが今後ともアジアの子どもたちのためにご尽力くださいませ。
乱筆ながら お礼まで
S

S様からのお礼のお手紙

ご支援をいただいていてこちらがお礼を申し上げなければならないのに、心温まる感謝の言葉をいただき担当者として感激しました。
本当にありがとうございました。

民際センターの図書支援では送った学校や本の様子を写真でご支援者様に報告いたします。

本には寄付者様のお名前を記載

子どもたちのお礼のメッセージ

 

【ダルニー奨学金】支援者の声も見る

【少数民族教師育成プロジェクト】支援者の声も見る

遺贈支援者の声

■ No.20 井上文子さん

ご支援者の井上文子様がお父様の遺贈寄付でラオスに学校を建てられた案件が 毎日新聞WEB「医療プレミア」2019年3月12日に掲載されました。以下はその抜粋です。

タイ国境に近いラオス国内に15年11月、中学校が建設された。それまで集落から10Km以上離れた場所にしか中学がなかった地域で150人ほどが学ぶ。この学校は、埼玉県行田市の社会保険労務士、井上文子さん(66)が、父・田島清作さんからの相続財産1200万円を公益財団法人「民際センター」に遺贈寄付したことで完成した。

 校庭には、田島さんの名前と共に「学びで自分が変わる。地域が変わる。国が変わる。教育の場を」とラオス語で刻まれた木の看板が立つ。田島さんの「思い」を、井上さんが文にした。竣工式に参加したときの写真を見ながら、井上さんは「完成して2年後に訪問したら、看板の下が花壇になっていたんです。なんだかうれしくて、とても誇らしくて。たとえ遠くても、この同じ空の下に父の生きた証しがあり、人の役に立っている。『お父さん、やったね』という気分なんです」と声を弾ませる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親の思い出などを語る井上文子さん=埼玉県内で、筆者撮影

父の思いを大事に

 田島さんは1927年、7人きょうだいの次男として生まれた。家は貧しく、高等小学校を出て働いた。戦後魚の行商から始めて財を成し、井上さんら3人の子どもを育てた。田島さんは特に子どもたちの教育に熱心で、「たとえ泥棒でも、学力や勉強したことは盗めない。しっかり勉強しなさい」と繰り返し語っていたという。

 田島さんが06年に亡くなり、きょうだい3人で遺産を相続した。その時、井上さんの夫一博さんから「自分たちで働いて得たお金で暮らすのが本当の自分たちの生活だから、遺産には手をつけたくない」と言われ、遺贈寄付に考えが至ったという。

 父の思いを考えれば、寄付するなら教育関係にしたい。井上さんはもともと公益財団法人民際センターを通じて、途上国の子どもたち向け奨学金を寄付していた。信頼できる団体かどうかを確かめようと、民際センターでボランティアをしながら様子をみて、最終的に遺産を託すことを決めたという。

幸せが連鎖する

 「遺贈寄付をしたことで、学校に通えるようになった子どもたちとその家族が幸せになり、私自身もとても幸せな気持ちになった」。井上さんは、自身も遺産の半分程度を寄付したいと、遺言を作成することを考えている。「母親のお金が社会の役に立てば、子どもたちにもきっと幸せが連鎖していくと思うから」と井上さんは語る。

 寄付は、他者のためになる「利他」の行為だと思われがちだ。だが、利他であると同時に、自分にも喜びや満足をもたらす「自利」でもある。

 

 

 

 

 

 

 

現地での開校式典で井上文子さんが撮影した写真。父の遺影を持参した(井上さん提供)

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